松平俊子の教え

武士の嗜みの時代、戦場において何時敵となるかも知れない相手をもてなし、常に備え、全てに気を配り、機に応じ、時に従っていささかの隙も見せない、全身一心の振る舞いを茶道としてきました。

社会の仕組み、生活の環境も大きく変化してきた今、新しい生活の空間に時間を入れた新しい簡易なお手前を先人への敬意と尊敬のもと、日本人としての気品溢れる人格をつくるものが、松平流の新しい茶の道です。

讃岐高松藩松平家の歴史

讃岐高松藩松平家の初代藩主・松平頼重(よりしげ)は、徳川家康の11男、頼房(よりふさ)の長男にあたります。

本来であれば、水戸徳川家を継ぐ立場にあったのですが、父・頼房は兄の尾張藩主・義直(よしなお)、紀州藩主・頼宣(よりのぶ)に先だって、男子をもうけたことを憚り(はばかり)、長男の頼重ではなく、三男の光圀を水戸藩主にたてました。それがあの水戸黄門こと、徳川光圀です。よって、初代藩主の松平頼重と徳川光圀は兄弟にあたります。

そして、江戸末期、讃岐高松藩松平家にとって大きな出来事が起こります。それは井伊直弼が水戸浪士らによって殺害された1860年の桜田門外の変です。実は井伊直弼の次女、弥千代姫と、第10代高松藩主・松平頼胤(よりたね)の息子、頼聰(よりとし)は婚姻関係にありました。当時は非常に珍しい恋愛結婚でした。

しかし、桜田門外の変で井伊直弼は暗殺され、実権を握った老中・安藤信正により井伊直弼の息が掛かった家臣達は罷免されていきます。その流れの中で弥千代姫と頼聰(よりとし)は家臣の進言などにより離縁することになるのです。しかし、お互いのことを想う思いは、歴史の大きな出来事を乗り越えました。

江戸幕府が倒れ、時代は明治となったのち、頼聰(よりとし)と、愛する弥千代姫は離縁から復縁します。お互い独身の身、離縁してから、9年の歳月がたっていました。

明治5年、復縁した頼聰(よりとし)と弥千代姫(このときには千代子)の間に産まれたのが、松平胖(ゆたか)です。のちに、その胖と結婚する俊子は、明治維新後も外交官としても活躍した佐賀藩主・鍋島直大(なおひろ)の六女になります。俊子は大正末期から終戦期まで、社会実業家として活躍します。

その突出した気品から、俊子は戦後、昭和女子大学の前身である、日本女子高等学院の校長となりました。その校長時代に俊子は、松平家に代々伝わる生き方教本「松平法式」をまとめました。

「松平法式」を講演しているのが、俊子の孫の松平 洋史子です。